幻影 すべて夢でも、かまわない。 薄暗く湿った地面に座り込んで、静けさの中に埋もれたまま夜を待つことにした。今は、光が辛い。 自分の吐く息さえ聞こえない静けさに、食い尽くされたどんな微細な音でも、ほしいと願う。けれど、世界はあまりにも真空。 生まれる前に食い尽くされるすべての音たちにとって、この静寂こそがもしかして鎮魂歌なのか。柄にもなく、感傷的な気分で空を見上げる。自分の心よりもさらに重々しい空を。 音を食らうという妙な森に入ったのは、もう二日ほど前のことだった。 細い一本道の前に老女がいて、小さな声で、無音に負けるなとだけ告げた。無事抜けたくば、心をさらすなと。 分かっていると答えた。 音がないくらいどうということはないと。 自分なら大丈夫だと、思っていた。 いい様だ、細かく震える指先を自嘲して、目を閉じる。 いい様だ、隙間なく詰め込んでいたはずの心を崩された。人生まれに見る体験じゃないか。 早く夜になればいい。夜ならば静寂も道理。けれども昼間のこの世界に、音がないのは気が狂う。早く早く、どうか正気を保っているうちに。 祈れば祈るほど、夜は遠ざかる気がして、息をつく。 吐息さえ、聞こえない。 冷たく乾いた両手で、耳を覆った。強く強くふさいで、そうすれば音がないのも道理だ。きつく目を瞑って、ほらまるで夜の中にいるよう。 暗闇など、たやすい。 だから黒は嫌いだ。 なぜ、なぜ、と繰り返した。負けるはずのない勝負に負けた、その理由がまったく分からない。なぜ、自分が負けねばならなかったのか。よりによってこんなちっぽけな森に。なぜ、こうして敗走して、迷うままにさまよっているのか。 なぜ、なぜ。 貴方は自分ばかりを見すぎるのよ、と昔言ったのは誰だった? どんな声でそれを言ったのだったろうか、彼女は。暗闇にもなりきれぬ人工的な黒の中で、考えた。 彼女。 そう、女だ。とても大事な人だった気がする。 大事な。 けれどもいつも怒られた。寝ていればどうして寝てるのよと怒鳴られ、おきていればとっとと寝なさいよと命令され、食事のときは嫌いな物を残すと酷く立腹された。 新聞はぐちゃぐちゃにしないで綺麗に読んで、とか。 床に灰をこぼすならタバコなんか捨てちゃうからね、とか。 休日だからっていつまでも寝巻きでごろごろしないの、とか。 思えばいつも彼女は怒っていた。いつも、ずっと、楽しそうに嬉しそうに怒っていた。 邪魔だから散歩にでも行ってきなさい、と家を放り出されて、根っから家にこもる性格だった僕は酷く腹を立てて。 けれども道々に見つける花や、新緑の鮮やかさに目を奪われ、そのうちすっかり上機嫌になってお土産まで彼女に買って帰る。戸口を開けたら、そんなことお見通しだというような柔らかい笑顔で、お帰りといったその声・・・。 声、を。 彼女はどうしているんだっけ? 薄闇をこじ開けて、空を見上げる。相変わらずあせた青空だけれど、それはきっと、どこかにはつながっているはずだ。 彼女に、会いたい。 たくさん怒られて、たくさん喧嘩して、大嫌いだと言ったし思ったのに、それでも結局なんだかんだで元に戻って。 だから言ったじゃないの、と彼女は笑った、私たちは磁石みたいなもんなんだって。決定的な言葉はくれない彼女の精一杯譲歩した告白みたいなその台詞を、彼女は、どんな声で。 好きなんだ。大好きなんだ、愛してるんだ。彼女がいなきゃだめなんだ。 自分はすごく、好き嫌いが激しくて。 新聞は分解して読むのが一番効率的だと思ってるし、タバコの灰どころか珈琲をこぼしたって自然乾燥に任せてた。休日は徹底的にごろごろしたい。どうせ外になんか出たくないから着替えるのだって面倒くさい。ずっとそうして生きてきたけど、ずっとそうやって生きるんだと思ってたけど。 口出されるのなんか嫌いだ。 自分のやり方を無理やり曲げられるなんてたまったもんじゃない。 それなのに許した。 何度でも許した。 彼女にはその権利があると。この人生にいくらでも口を挟んでいいと、許可していたのは自分だ。気に入らないし面倒くさい。本来なら聞いてやる義理もない。 だけど真底いやでもなかった。許せるくらいに、彼女に惚れてた。 あせた空が、不意にぼやける。 怖いのは、狂うことではなく。 怖いのは、この森から一生出られないことではなく。 怖いのは、彼女を忘れること。 今彼女の声が思い出せないこと、ただそれだけ。 いってらっしゃい、早く帰ってきてね。 どんな声で彼女はそれを。 どんな顔で彼女はそれを。 分からない、思い出せない、食べられてしまった。 それなのにつぎはぎと空洞だらけのそのかけらですら、愛しくて。 だから、だめだ。こんなところに心をくれてやるわけには行かない。だって帰ってきてと彼女は言った。帰らなきゃ、帰らないと。 またひっそりと。 誰にも知られぬように、大丈夫だと言い張って、彼女は。 ただひっそりと、泣くことしかできないで。 震える手を地面について、ゆっくりゆっくり立ち上がる。 彼女の声を覚えていない。 彼女の顔を思い出せない。 思い出の大半を蝕まれてしまった。 このつぎはぎだらけの記憶が、すべて夢だったとしても。 すべて夢でも、かまわないから。 彼女は許すだろう。彼女との日常を夢にしてまっさらになったとしても。 仕方ないなあと笑って、じゃあまた最初からねと。 はじめましてから繰り返しても、大丈夫なんだと知っている。 だって二人は、磁石みたいなものなんだろう? 今はただ、時とともに薄れていく記憶を一生懸命掘り起こしながら、この音のない森を出て、君のお帰りなさいという声を刻み込めるよう、祈っている。 お世話になっています、薫さんに捧げます。 毎度おなじみの展開で申し訳なく(汗 絶え間なき祈りを愛しき人へ。メリークリスマス。 こちらこそお世話になっております。 宜しければ末永くお付合い下さいませ。 |
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