春雷







その男は、背中に桜を持っていた。





  初めてその男を見たのは真夏の川べり。
  私は何も知らないほんの子供で、名前がなくて、自分以外の生物にどんな区別があるのかさえも良く分かっていなくて、その男が誰で、どんな評判の人間なのかも当然知らなかった。
  ただ、その男はひどく寂しそうに、宵の空を見詰めて一人だったから。
  だから、黙ってその男の隣に座った。男は驚いたように私をじっと見詰めて、だから私はじっとその目を見返して。
  ずっと、ずっと、見詰め合って。
  そうして、男は、瞬きをした拍子に、ぼろりと大粒の涙を流した。
  突然のことにあっけに取られた私をただただ見返しながら、男はまるで呼吸するように静かに、泣いていた。その目に私を映しながら。



  この町ではちょっとした有名人だったその男は、常に人に敬遠されている、近寄りがたい雰囲気の青年だった。いつでも、その男は一人だった。誰かと一緒だったところなど見たことがない。・・・私をのぞいては。
  私は男を「春」だと思った。
  なぜなら、男の背中には大きな桜が咲き乱れていたからだ。
  この男は春を持ってくる。春を持っている。なぜだかそんなように、私には思えた。だから私は、その男を好んだ。
  その男は、私にとっての「春」だった。
  「春」はいつも私のところへ来るとき、酒を一瓶と、するめの切れ端を持っていた。ぶらぶらと前触れもなくやってきて、私の隣で静かに酒を飲み、ほんの少しばかり話をして、いつもそれだけだった。
  「春」は私を「宵」と呼んだ。私には名前がなかったから、それが初めて持った自分の名前だった。なんでも、「宵の口に会うから」、宵なのだそうだ。まるでくどき言葉だな、と「春」は笑った。


  なあお前、宵って呼んでもいいだろ?お前は口がきけないけど、嫌だったら態度で嫌がれよ?そうしたら俺、お前の嫌がるようなことはしねえから。


  「春」は優しかった。とにかく、私には、いつでも優しかった。口がきけない私を、こんな風に気にかけてくれたのは、春だけだった。だから私は「春」が好きだった。
  ともかく、他の誰よりもと形容詞をつけていいくらいには、「春」のことが好きだった。
  「春」はいつでも、どこかに怪我をしていて、近づくと血のにおいがした。けんかが仕事みたいなものだ、とかなしそうに笑う。「春」は時折顔にまで包帯をぐるぐると巻いて、それでも酒を飲むことは決してやめなかった。


  なあ宵、俺の手、汚いだろう。


  私が黙って擦り寄ると、「春」は、最初困ったようにそう言った。


  俺の手、いつも、誰かに怪我をさせてばかりいる。そういう手だ。そんな手だけど、撫でてもいいか?


  「春」の手は、いつもおずおずと伸びてきて、ぎこちなく私の頭を撫でた。無骨な、ざらざらした手。いつも誰かを傷つけるという手。けれども、私にはいつだって、大事に大事に触れてきた。その手は、確かに傷だらけで、豆もあって硬くて、人を傷つけるために使われているのかもしれない。けれどもそれは、決して私には牙をむかない。それだけは分かった。


  うちに連れてってやりてえけどなあ。


  少しだけ残念そうに、「春」はつぶやいた。


  うちに来たら、殺されちまう。そんなの、耐えらんねえな・・・。


  「春」の言葉には、時々主語が足りなかった。「春」は自分を頭がよくないと言っていたし、事実学校も途中で辞めてしまったというけれど、私にしてみればそれだって十分に頭がいいほうだと思った。私など、学校というものにいったことさえないのだから。
  「春」が私のところに来るようになってから、私は黙って「春」の話を聞き続けた。二度目の夏が来て、秋が来て、冬が来て、春が来て。もう直ぐで三度目の夏が来るというときまで、ずっとずっと私と「春」の関係は変わらなかった。
  けれどもその、春から夏へと移り変わるときに、事件はおきた。
  「春」は、手を出してはいけないものに手を出して、追われる身となって、しまいには大勢の男たちに袋叩きにあって、大怪我をした。
  男たちは「春」を病院になど連れて行かなかった。
  男たちは、ただ「春」を、川原に転がして、そのまま姿を消してしまった。私はその全てを、草むらから震えながらみていた。
  男たちが「春」から離れていったとき、私は直ぐに「春」に駆け寄った。
  遠くに行きかけた男たちが、虫の息の「春」と、それにすがる私を指差して笑った。


  様アねえな、『遠野町の桜』っつったら、その道でも底々の評判だってえのによ。冥途の見送りはそのちまっこい猫一匹か。それとも、その猫はお前の死体を食うために来たのか、どっちだろうなア。


  人は誰も、「春」を気に留めなかった。
  川原のそばの道を行く人も、私が懸命に鳴いたところで、足を止めない。誰か、誰か、と私は必死だったけれど、誰も「春」を病院に連れて行ってくれる人は現れないまま。
  時は、いつしか宵へと。


  馬鹿みてえだろ。


  酷く辛そうに息をつきながら、血まみれの手を額に当てて、「春」は掠れた声を上げた。私は自分がどうして人間でなかったのかとそればかりが口惜しく、情けなさでいっぱいになりながら、それでも「春」に寄り添って。


  馬鹿みてえだろ、馬鹿みてえ。俺はいつだって人に疎んじられて、でも俺は人に優しくして欲しくて、けれども自分から優しくすることは出来ねえで。・・・なあ宵、俺、馬鹿みてえだろ。


  私はなんともいえないまま、ただ、「春」の頬に自分の頬を摺り寄せた。それでも、私はお前が好きだと、それだけが伝わればいいと思った。
  どうして、どうして、私と「春」は同じ生き物ではなかったのだろう。同じ生き物だったなら、せめて、「春」の痛みを和らげることができたかもしれないのに。それができなくとも、私の声が「春」に届いただろう。私の思いを、「春」が一番だというこの思いを、伝えることができたのに。


お前には、優しくできんのに。なあ、どうしてかなア。


  酷くかなしく笑うので、私はいたたまれなくて、「春」の瞳をじっと見詰めた。自嘲するように笑う「春」が、私の目を見返してふと表情を消す。


宵。


  そうして、その目に。
  ゆるゆると、涙が溜まって。


  宵、なあ、俺はこんなやつで、親のお荷物で、いつでも誰にも好かれなくって、最低な野郎だ。犬も猫もなつかなくて、今までずっと一人きりだった。けどな、お前にこの川原で会ったとき、俺が何で泣いたかお前、ずっと不思議そうだったけどな・・・。


  自分がなにを言っているのか、よく分かっていないような口調で、「春」は静かに泣きながら、私の頭をそっと撫でる。ぎこちなく不器用で、初めて手を伸ばしたときから何一つ変わらない仕草だった。


  お前だけだったよ。お前だけだ、こんな広い世の中だってのに、俺の目をまっすぐ見たのは、お前だけだったんだ。なあ、馬鹿みてえだろ。お前の口がきけなくてよかった。だってお前に口がきけて、お前も俺の悪口しか言わなかったら、俺は今までは生きていられなかっただろうよ。なあ、馬鹿みてえだろ、宵。馬鹿みてえだけど・・・。




  馬鹿みてえだけど、宵。なあ、ちょっとだけでも、ほんのちょっとだけでも、俺のこと好きだったか・・・?




  遠くで雷が鳴った。「春」の顔が雷の光に照らされて、真っ白に映し出されえる。ああ、なぜ、なぜ、私には口がきけないのだろう。どうして「春」に一言、一番好きだといえないのだろう。伝わらない思いなど、ないも同然ではないか。
  私はもどかしくてたまらず、ただひたすらに「春」を見詰めて、そのうつろな顔に、懸命に頬を摺り寄せた。

  いかないで、いかないで。

  優しくしてくれて、嬉しかった。
  誰からなんと言われようと、「春」は私の一番だ。それじゃあだめなのか。それだけじゃあ、なぜだめなのか。
  懸命な私の祈りを吸いこむかのように暗闇はさらに暗く、そうして「春」の瞳はついに閉じた。荒い息が、最後の力を振り絞るように言葉を探る。



俺が生まれ変わったら、お前のこと探してやる。宵、お前、生まれ変わるなら人間になれよ。そしたら、俺と、友達、だな・・・。



  落雷。
  「春」の手が、力を捨てた。





  残されたのは、来世に渡るまで春のない世界。



暁を待つ庭 ('04−12−23)

自作の小説を公開。テンポ良く読め、中には意外な結末も…。

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